お里帰りレポ

宮城に帰省してきたよー


土日月と、二泊三日で宮城の実家に戻っておりました。

なので、現地で見たこと聞いたこと、ざっくりレポートします。

今回移動したのは内陸部なので、沿岸部に比べれば遥かに被害も少ない区域で、殆ど報道される事もない所ばかりです。

新幹線に乗ること小一時間、栃木の那須塩原駅あたりから、屋根の破損が目立つ家屋が見かけられました。
それからずーーっと、屋根が壊れてシートで保護している光景がチラホラ見つかります。




瓦屋根は結構崩れてますね、しかも範囲も広いし瓦職人も少なくなっているから修理が中々追いつかないのでしょう。


仙台駅に到着、ちなみにここでは降りません。


社内からの撮影なのでみづらいですが、屋根を全て取り払ってます。
3/11の震災で屋根が全て落ちてしまったため、鉄骨ムキムキ出しの状態な新幹線ホーム。
ちなみに、仙台駅の外壁も修理中なのて、全部シートで覆われているそうです。


仙台から30分、目的の「くりこま高原駅」に到着。


この付近は、3/11の震災で最も震度が大きかった場所なのですが、駅自体も周辺の道路も綺麗に直っています。
しかも驚くことに、ここからレンタカーで故郷に向う途中の光景なんですが


屋根、だいたい直っている。

シートで保護されている屋根が、途端に少なくなっています。
被害が大きかったため、業者が一斉に集まって修理したのだと予測。

ただ、道路は所々ひび割れたり陥没しています。
少しずつ工事が始まっていますが、範囲が広すぎるため中々おっつかない状況。

たまにガッタンガッタン揺れる道を、一路故郷へ向います。


故郷の登米市に入って感じたことは

中江という地区がありまして、ここは24-5年前に水田を埋め立て、かなり大きな商業地域を作りました。
役所もここに移転。
しかし、元々水田だったためか地盤が弱かったらしく、中江地区は道路のひび割れ、陥没がかなり目立ちました。
マンホールが大きく浮き上がっている歩道もあり、通行には多少不便な状況です。

同じ市内でも、昔から町があった佐沼地区は道路が無傷です。驚くくらい何もなし。

市内のスーパーに入ったところ、物資は豊富に揃っています。
関東では購入制限のあるミネラルウォーターも買いたい放題。
震災で店を閉じたところもあるのですが、それでも大型の店舗はどこも物が十分にあり、生活に不自由は無いようでした。


市内の蕎麦屋でお昼食べたあと、実家に向う。
実家にいる母へのお土産は、単三乾電池いっぱい。三陸産わかめ。東京あんプリン。
でも、三陸産のわかめ、数は少ないけれどちゃんと出回っていました。
気仙沼の業者が、残ったワカメを一生懸命出荷しているそうです。


母と買出しに行き、必要な食料と今日のディナーのお寿司を買って、中々ボリュームのある夕食。
食べ過ぎてお腹痛くしました(バカ)

翌日、近所に住む兄家族を訪問し、お土産の「あんプリン」と見舞金を出したところ

「被災もしていないのに受取る義理は無い!!」
と見舞金をつき返されかけたので
「それじゃ可愛い姪のための小遣いでっ!」
と言ったら
「それなら、受取ろう」とやっと受けてくれましたふう。


で、警察官の兄貴からの第一声なんですが


「南三陸は見に行ったか??」


「・・・行けるわけ無いでしょ!!!」
えー兄曰く
「物見遊山とかそんなんではなく、あの光景を心に焼き付けて忘れないようにしたほうがいい」ということなんですね
兄のような筆舌しがたい光景を見た人間から言われると説得力はあるんですが
まるがにはヘタレで、報道写真を見たレベルで十分落ち込んでいるし、実際にみたら立ち直れないと
いって丁重にお断りしました。

第一、手ぶらで被災地に行って写真撮ってくるなんていう外道な真似は出来ませんてorz


ああそれで実は、登米市内に入ってびびる事があったんですね


渋滞してるんです、大渋滞。
市内に向けて、二方向から凄い勢いで車が来て、関東の人間が見てもびびる位の超渋滞が起きてるんですよ。

兄貴に聞いたら
三陸気仙沼石巻は、もう店が流されてマトモに物が入らない状態で
その地域の人たちが物資の買い付けに行きやすいのが、この登米市なんだそうです。
実際、登米市でも南三陸からの被災者を大分受け入れているし、実家の前にある借家にも、南三陸からきた家族がお住まいだとのこと。


つまり、登米市は復興のための補給地点みたいな役柄なのですね。
市内を走っていたら、自衛隊の車両とすれ違いました。本当にお疲れ様です。


翌日、実家を発って駅に迎う前に実父の墓参りをしました。

墓地は、地震の影響で傾いたりひっくり返ってしまった墓石が多くあり、石屋さんの車も来ていて必死に作業してました。
この二ヶ月ほとんど休みなしで墓石の修復しているんだろうなぁ、お疲れ様です。

実父の墓は被害が少なく、早めに修理してもらえたので綺麗な状態でした。
線香上げて手を合わせた途端、溜息出てしまいました。
「とんでもない事になったよー」と墓に向ってポツリと呟いてしまった。


墓参りのあと少し時間があったので、思い出の場所に足を伸ばしました。
「鹿ヶ城公園」
といいまして、昔お城があった場所を公園にしたところです。
子供の時は、毎日のように遊んでいました。

公園は、桜の季節になれば屋台も出て賑わしいのですが、この日は平日なので人も無し。
子供の頃見た光景と同じように、緑の草ボウボウの静かな公園ですが。

お堂の前の石塔が、こんな状態になってました。
宮城県沖でも崩れなかったのになぁorz

人の住む場所の修理もすすんでいないので、石塔はしばらくこのままなんだろうなぁ


まー、こんな感じでまるがにのヘタレ帰省は無事終えました。


しみじみ感じたことは

本州の半分が広い範囲で傷ついているということ。
この復興には、ほんとうに長い年月をかけなければならないということ。
3年、5年、10年先まで、大変な手間と労力がかかると思うので
支援も、長く長く続けていかなければならないという事でした。


まるがに、頑張って仕事して支援するよ!!!